何が温泉街の明暗を分けたのか ー外部資本に頼らなかった湯布院のまちづくりー


(更新日:2016.08.04)
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『温泉』は集客力があることから、温泉資源を保有する自治体では、温泉を軸としたまちづくりが行われることが多い。しかし、それらの自治体のすべてが成功しているわけではなく、財政危機宣言が出されるほどの危機的状況に立たされている自治体も存在する。この記事では、静岡県熱海市【暗】と大分県湯布院町【明】をモデルとして、近年はっきりと分かれる温泉街の明と暗について紹介する。

温泉観光地に対するニーズの変化

温泉観光地のニーズは、バブル以前と以後で変化している。バブル以前は団体客・男性客・社員旅行客のニーズが大きかったが、不況の影響で現在は個人客・女性客・家族旅行客のニーズが比重を増している。このニーズの変化について行けたかどうかが、温泉街の明暗を分ける大きな要因となっている。

 

バブル期までの熱海市

静岡県熱海市は古くから湯治場と栄える国内有数の温泉観光地であり、観光関連産業が産業全体の85%を占める。明治期からは保養地としての人気を集め、多くの文人や要人に愛された。高度経済成長期には、熱海市行政は地元の有力旅館経営者との協議のもと、方針を団体客・男性客・歓楽・宴会向けに転換した。これに伴って、多くの大型観光ホテルが誘致され、また男性客目当てのストリップ劇場や風俗店が増えた。


熱海の風俗街

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熱海は団体旅行客・男性客・社員旅行客向けに、風俗、ストリップなどの建設を行ったが、それによって熱海ブランドを大きく傷つけてしまった。


バブル崩壊後の熱海

その後しばらくはバブル景気も相まって観光客は増加したが、バブルの崩壊とともに状況は一変した。熱海の生命線だった団体客は、不況に伴う社員旅行の現象とともに激減していった。また風俗産業の誘致に伴う熱海ブランドの低下も相まって、観光客数はピーク時の600万人から現在は300万人にまで減少した。また市の衰退も著しく、1975(昭和50)年に51437人を数えた市内人口は、2010(平成22)年時には40000人をきるまでに減少した。近年は高齢化も深刻で高齢化率は37%、毎年1%以上の割合で上昇している。主要産業である温泉観光産業および地域コミュニティの衰退の中で、2007(平成19)年には市が財政危機宣言を出すに至った。このような状況は、かつて自治体主導型開発の優等生と言われながらも、ハコモノ偏重のリゾート開発を進め、財政破たんに陥った夕張市と似通っている。
 また、このような状況に熱海市が陥った原因としては、旅館経営者と行政の間で細かな意見のやり取りがなされなかったこと、さらには住民のニーズを吸い上げるシステムが機能しなかったことにより、温泉産業のニーズが個人旅行・女性客・家族旅行・保養にシフトしていることに敏感に気がつけなかったことが挙げられる。


現在の熱海市

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バブル期に開発されたリゾートホテルが立ち並ぶ


戦後の湯布院~過剰な開発を避けるまちづくり~

昭和初期までの湯布院町は農業が中心の一農村にすぎず、温泉地もごく小さな規模であった。しかし、この町は1952(昭和27)年にダム建設構想が立ち上がったことをきっかけに大きく転換する。ダムの建設を巡り、生活水準の向上を求めダム建設に賛成する農家と、自然環境の喪失を危惧し反対する青年団や旅館経営者の間で町を二分する大激論が発生した。結果的にダム建設は中止になったが、この出来事をきっかけに、住人自らが真剣に町の将来について考える土壌が形成されたのである。

1955(昭和30)年に湯布院町長に就任した岩男頴一氏(彼は青年団長としてダム反対運動のリーダーを務めていた)は「湯布院保養温泉地構想」を打ち出し、湯布院町の温泉観光地化を進めていった。この構想での一番の狙いは、近隣の別府温泉のように歓楽化や大型化を進めるのではなく、環境や景観を守りつつ観光客がゆったりくつろげるような観光地にし、別府との差別化を図ることにあった。こうして強力なリーダーシップを持つ岩男町長の下、住民と行政が一体化となった町づくりが湯布院において進められてくことになった。行動力のある旅館の若手経営者がいたことも手伝って、次々に温泉地として新しい取り組みを打ち出していく。1974(昭和44)年、岩男町長は西ドイツの伝統的保養温泉地を視察し、温泉観光において「療養」「保養」という側面が大きな武器になるというヒントを得た。町長のこの報告を受けた温泉観光若手旅館経営者3氏は、1971(昭和46)年に私費でヨーロッパへ視察旅行を敢行した。そこで誕生したのが「クアオルト構想」である。クアとはドイツ語で「治療」「保養」を意味し、オルトは「場所」「地区」を指す。つまり、まち全体を健康的な温泉保養地にすることによって、湯布院温泉の差別化を図ったのである。風俗街を建設した熱海市とは好対照をなしている。


湯布院の温泉街

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過剰な開発はせず、自然と調和した街並みを作ることによって、個人旅行客・女性客・家族旅行客のニーズに合わせている。


開発の危機を逆に住民団結のチャンスに変えた

しかし、高度経済成長期の日本全体がリゾートブームに突入する中で、湯布院にも土地開発の波が襲い、1970(昭和45)年に、町の近くにゴルフ場の開発計画が持ち上がる。湯布院の売りである豊かな自然と景観が破壊されることに危機感を募らせ地域の若者は、有志の間で「湯布院の自然を守る会」を発足させ、開発を阻止した。これを機に、翌46年には「明日の湯布院を考える会」が誕生するが、これらの一連の事件を契機として、住民がまちづくりに積極的に関わるようになったといわれる。

その後、湯布院町には1971(昭和46)年にファームタウン建設計画、1972(昭和47)年におとぎ野サファリーパーク招致など、数十億円規模の大型開発の計画が立て続けに持ち上がる。高度経済成長期においては、行政は大型開発を積極的に進めていく場合がほとんどであったが、湯布院は「湯布院ブランド」を守るため青年団を中心とした反対運動が繰り広げ、すべての計画を白紙撤回に終わらせた。昭和60年代に入ると、リゾート法の公布にバブル経済が相まって、外部資本による開発が地価の高騰を招いた。そのため“田んぼ1反1億円”と称され農地を手放す人も増える中、農村景観を残した温泉保養地という町のあり方が根底から揺らぎ始めた。しかし、行政と住民は素早く反応し、平成2年9月に「潤いのあるまちづくり条例」を制定した。この条例では成長の管理や開発の抑制などが高らかに謳われ、湯布院ブランドを守るための需要な条例となった。現在では同名の条例を制定する自治体も出てきており、官民協働によるまちづくりの結晶として高く評価されている。一方、一連の反対運動は必ずしもすべての住民に賛同されたわけではなく、住民間の衝突により湯布院町が分裂する危険性もあった。このような住民の分裂は、自治体運営を阻害しかねないため解消せねばならない課題であった。。そこで「明日の由布院を考える会」が若手旅館経営者によって設立され、住民はお互いの意見をぶつけ合い、また情報の交換をすることが可能になった。


災害を乗り越えて

また湯布院は自然災害の危機も体験している。1975(昭和50)年、湯布院は大分県中部直下型地震に襲われ総額50億円の建築物への損害とともに、メディアから湯布院の温泉産業は壊滅状態だという風評被害も受けた。しかしこの際も、辻馬車を走らせたり、音楽祭や映画祭を開催したりすることで、健全な湯布院をアピールした。


現在の湯布院

オイルショックをきっかけに、温泉観光のスタイルは男性・団体客中心から女性・小グループ中心移り変わっていったが、これによって湯布院のまちづくりは次第に大きな評価を得ていき、日本中から脚光を集めるようになった。民間側の動きが活発化すると同時に、行政側も観光課の設立、大分県の一村一品の登録、社団法人日本温泉協会の国民温泉保養地指定への動きなどを活発化し、さらに行政と民間、住民が一体となったまちづくりが進められるようになった。1970(昭和45)年には100に万だった観光客も、現在では年間400万人に達している。


湯布院の温泉

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自然と調和した設計がなされている


なぜ湯布院が成功したか

まちづくりに失敗した熱海市と比べて、湯布院はどうして成功することができたのか。それには次のような理由が考えられる。

①住民が自らまちづくりを行っていく土壌が形成されていたこと
②また住民の意見をくみ上げる仕組みが古くから出来上がっていたこと
③観光開発の黎明期には岩男町長という強力なリーダーが存在したこと
④外部資本に頼らず独立独歩のブランドづくりを徹底したこと
⑤有能な旅館経営者がそろっていたこと
⑥そしてなにより、これらの民間・行政・住民がしっかりとパートナーシップを形成し、それぞれが緊密に連携し合っていたこと

これらの要素により、多くの温泉観光地が苦境に立たされ、さらに自身も別府の繁栄・リゾート開発の波・地震・住民の分裂などの度重なる逆境に襲われながらも、湯布院はそれらを乗り越え成功を収めることができたのである。


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